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ストーンウォークの福岡県内の道筋の戦争の傷跡

●福岡市の空襲 ●八幡の空襲
第二次世界大戦時、福岡市 北九州市全域に空襲があり、多くの無名の市民がなくなられました。北九州市の小倉北区は、世界で始めてのプルトニウム原爆の当初の投下地点であったが、8月9日当日厚い雲に覆われて、ナガサキに変更されました。

●板付米軍基地
旧日本軍の基地が、戦後米軍の基地として使用され、朝鮮戦争、ベトナム戦争などの前線基地として使用され、朝鮮半島やベトナムのの多くの人々を殺戮しました。

●小郡市大刀洗飛行場
 甘木鉄道太刀洗駅に併設されています。大刀洗航空隊は西日本における陸軍航空発祥の地であり、日中戦争・第二次世界大戦の間ここに多くの航空関係部隊が編成されました。戦争末期には特攻基地あるいはその中継基地としてつかわれていました。
 ここから飛び立った飛行機が、多くのアジアの人々の命を奪ったこと、そして、負けるとわかっていた戦局の中で多くの若者がこの飛行場から特攻隊として飛び立ち、その命を失いました。

●曽根の毒ガス工場
第二次大戦時、ヒロシマの大久野島で作られた毒ガスは、北九州市小倉南区の曽根に運ばれ、弾薬にそうてんされました。海中に戦後投棄された毒ガスは60年たってやっと無害化処理されています。
ここで作られた毒ガスは、中国大陸で使用され、多くの中国の人々の命を奪いました。
そして、いま、のどかな住宅地のまんなかにあるその毒ガス工場跡は自衛隊の市街戦訓練基地としてまたあらたな殺戮の訓練に使われています。

●小倉砲兵工廠
陸軍小倉造兵廠は、第二次大戦中日本の有数の武器製造工場がありました。もともと小倉は軍都として発展してきた町で、そのため原爆投下の目標ともされました。ここで作られた兵器が多くのアジアの人の命を奪い、そこでつくられた風船爆弾はアメリカ本土まで到達しました。

●山田弾薬庫
北九州市小倉北区の山田弾薬庫は、米軍からへんかんされるまで戦前戦後を通じて、日本最大の弾薬庫でしたが、朝鮮戦争ベトナム戦争の時には、弾薬を満載した列車がそこからアジアへと弾薬を運びました。ベトナム戦争のときは、労働組合などが戦争反対のため列車をとめるたたかいをおこないました。

●福岡県八女郡星野村の原爆の火
1945年8月6日の広島原爆投下から約1ヶ月後、筑後の山本達雄さんは広島の爆心地に近い叔父の書店で見つけた原爆の残り火をカイロに点火して、福岡の家に持ち返りました。残り火を見つけた時、山本さんは「この火が叔父を、皆を殺したんだ」と怒りにふるえたということですが、祖母に見せるために持ち帰った火は、祖母によって火鉢の中で燃やし続けられ、朝タは仏壇に灯し続けられたのでした。山本さんにとってはアメリカヘの恨みの火、怒りの火でしたが、彼の祖母にとってその火は、原爆で死んだ息子を想う愛の火だったのです。祖母は12年間火を守り続け、その間に山本さんの怒りの心が愛の心へと変化していったということです。1968年に山本さんが住む福岡県八女郡星野村に「平和の塔」が建立され、山本さんの原爆の火が点火されました。星野村では毎年8月6日に「平和の塔」の前で平和祈念式典が開かれています。そして山本さんが広島から持ち帰った原爆の火は、世界平和のシンボルとなり、そこから分火された火が日本各地で灯され守られています。その広島原爆の残り火から56年の間、ずっと灯され続けて来た火が、人々の手によって運ばれアメリカ大陸を横断しました。

We are suporters of StoneWalk Japan 2005 in Fukuoka Pref. 7/2〜8/4 2005 from Nagasaki to Hiroshima